Body Electric

with Martha Atienza, Eisa Jocson, Stephanie Misa, Jake Verzosa, Elisabeth Penker and Kaga no Chiyojo
Curated by Mika Maruyama
アーティスト: マルサ・アティエンサ、アイサ・ホクソン、ステファニ・ミサ、ジェイク・ベルソーサ、エリザベス・ペンカー、加賀の千代女
キュレーション: 丸山美佳

Taking its title from the Walt Whitman poem “I Sing the Body Electric,” the exhibition sees the interrelationship between mind-body, that the body is a conduit to the outside world.
  While focusing on the figure of the body within Asia, the works in the exhibition are rooted in everyday life and the sensory experiences re/constructed by an influence of nature, geography, culture, and politics. The exhibition explores various dimensions from the state of sexuality and gender to embodiment and subjectivity and political discourses.
「ぼくは体の詩人であり、そして魂の詩人である」と詠ったウォルト・ウィットマンの詩「I Sing the Body Electric」からタイトルを引用した本展は、外部世界と結びつく身体をメタファーとして、別個には理解しえない心身の相互作用を捉えようとするものです。
 自然や地理、文化、政治に大きな影響を受けながら再/構成されていく日常生活や感覚的な体験に根ざした作品を通して、主にアジア文化圏の身体性と向き合いながら、セクシュアティやジェンダーのありようから主体性、政治言説に至るまで多様な領域をさぐります。


「電気的(electric)」の語源であり、もともとは「琥珀」を意味するラテン語 「electricus」が「電気的」という意味を持ち始めたのは、磁気と電気に関する実験において「琥珀のようにものを引き付ける特性をもつ」という意味で初めて使われた時だという。19世紀のアメリカ、競売にかけられた奴隷たちをたびたび目にしたウォルト・ホイットマンは、そのような意味で「I Sing the Body Electric」と彼らの肉体を賛美したとされる。のちに、電気を帯びた身体というメタファーは、身体を電気的な力と結びつける文学的なレトリックとして使われるようになり、新たな科学的知見が人々の環境認識に変化を与えたように、旧来の固定観念に縛られた男性中心的な社会に対する新たな女性像を積極的に提示する役目を担ったという。(1)

 ほととぎす ほととぎすとて 明にけり

江戸時代を生きた俳人、加賀の千代女は「ほととぎす」の句をいくつもいつくも作り続けていたある夜、「ほととぎす」を熟考しすぎていたために障子が明るくなり始めていたことにも気付かなかったという。トリン・T・ミンハはこの逸話を、”詩作”をするのではなく「なるもの」としての創作を示す例として議論しているが、創作における、高度に神秘化された役者の「存在」は自己ー自身への現前であると同時に不在を表す。時間の内と外に跨がる瞬間は、おのずと自己をも超えたものであり、千代の最も「純粋な」俳句とは、内も外も特権化することのない、「なる」ものとしての言語の状態の具現化であるのだ。(2)

展覧会「Body Electric」において、日常生活や感覚的な体験に根ざした身体性と結びついた創作は、セクシュアリティやジェンダーのありようから主体性、政治言説に至るまで多様な領域に横たわる。身体はそれらに包括されながらも、それらの間を媒介する発生の場として働いている。アジア的なものと西欧的なもの、男性的なものと女性的なもの、内側の視線と外からの視線とを交錯させながら、そのいずれへも仮託しない態度を表明する。

Eisa Jocson, Philippine Macho Academy, 2014

アイサ・ホクソンは、エンターテイメント産業における踊る身体を、自身の身体をもって突き詰めている。ソロパフォーマンス《Macho Dancer》(2013) は、フィリピンのゲイ・クラブで男性パフォーマーによって踊られるダンスを分析し、実際にそのダンスを身につけてシアター作品として発表したものだ。男性の情動的労働であるダンスを踊るホクソンの女性としての身体は、男性性の身体的かつ社会的習慣の両方を身に付けることで、女性性とマッチョを併せ持つ両義的でありかつ複雑に移行し続ける身体を体現している。男性性の概念を複雑にしながら、性的な欲望やエンターテイメント装置としてのストリップを一つの身体上で演じることで、性別化されているはずの裸の身体そのものが最終的にクィアな身体に変容していく過程をも見せ る。《Philippine Macho Academy》は、そのダンスを習得する過程をマニュアル化したものである。

Martha Atienza, Aba Reina Si Maria, 2009

オランダとフィリピンのバンタヤン島の両文化を移動しながら生活をするマルサ・アティエンサは、《Aba Reina Si Maria》において白い純白のドレスに着飾り聖母マリアを演じる。植民地支配された多くの地がそうであるように、バンタヤン島にはスペイン植民地時代からの土着的なカトリックの伝統がある。アティエンサは儀式に使われる実物サイズの聖人と並んだり熱帯特有の風景のなかに登場したりするが、その外見に反して無表情かつ抽象的な場景が映される。島の内と外の文化を跨がる作家自身の主観性の探求であるとともに、異化効果的にその地域特有の文化の内面化から生まれる視線との乖離をその身体性と場所性から強調する。

Stephanie Misa, Pimp My Papaya, 2016

私のパパイヤはどう?
すべて白くしてすべすべにするの
だって、色がついているのはダサいし、コロニアル・ホワイトは最高
可愛くなりたいの

「私」になりたいの
そうなるためには 特権的で色白の肌で
できるだけブリーチし ないといけないの
だって、白くなれば男の子があなたを好きになってくれるのよ
白くなれば女の友達も微笑んでくれるのよ
わぁ、とっても裕福で素敵に見える!

植民地主義という暴力をくぐり抜けた世界としてポストコロニアルと呼ばれる状況は、以前としてアンビバレントさを持ち続けている。身体にまつわる植民地支配の影響を、ステファニ・ミサ《Pimp My Papaya》は肌用ブリーチ剤の広告のパロディーに重ね合わせる。アジアやアフリカ、中東において一般的に使われているという肌を白くするためのクリームは、その影響が社会における自己認識のなかにいまでも残っている一つの例である。鏡の上で展開される女性性器を象ったパパイヤにヨーロッパ産のブリーチ剤が注ぎ込まれることは、外部的な力のねじれた内面化として見て取ることもできる。

Stephanie Misa, Cockfight, 2017

パパイヤの女性性の象徴に対して、《cockfight》の雄鶏と兵士の頭部は男性側を表している。闘鶏は東南アジアにおいても古くから行われてきた文化の一つである。多少なりとも野蛮で男性志向的であるこのスポーツはテストステロンが増えるように、雄鶏が男根を象徴する豊穣崇拝を暗示する。兵士の頭部は、スペインから独立を勝ち取ったのち、フィリピン革命軍と戦ったアメリカが編制した現地住民マカベベの傭兵部隊の追悼モニュメントを真似たものである。領土と栄光のために戦った泥沼の帝国主義的な戦争を象徴する現地の兵士は、それを駆り立てた男性的なエゴとしての二つのペニスの間で沈黙をする。

Elisabeth Penker, Split-Representation / Simone de Beauvoir and Split-Representation / Rosa Luxemburg (Circle) , 2014

ローザ・ルクセンブルクは、資本主義社会が植民地や女性労働といった搾取から成り立っていると洞察したとともに、「最後の植民地=女性」という視点をいち早く提出したが、彼女のポートレートを含んだエリザベス・ペンカー の《Sprit-Representation》はクロード・レヴィ=ストロースが比較した環太平洋にあたる東南アジアとアメリカ大陸の時代も空間も異なる地域の芸術表現形式である「分割表現」を応用したシリーズである。このシリーズでは、ピカソやデュシャンらの芸術家からソシュール、ホミ・K・バーバ、エドワー ド・サイード、トリン・T・ミンハなど、アジアを含めた非西欧と西欧世界に跨がる文化の翻訳や力関係の分析に関わってきた者の分割表現のポートレートが並ぶ。正面からではなく、軸を中心に対称的に結合した横顔は、「仮面」を媒介とする文化のあり方とともに、無数の文化が歴史のなかで逆転したり、変形したり、別の次元に置き換わりなが社会組織のヴァリエーションを保っていることをうかがわせる。

Jake Verzosa, Basketball Landscapes, 2016

ジェイク・ベルソーサ《Basketball Landscapes》は、アメリカの植民地であった関係からフィリピンの国民的スポーツであるバスケットボールの、その場しのぎのコートを撮影したシリーズである。空間や場所に関わらず、その風景からはバスケットボールへの熱意と遊びの能力をうかがわせる。ビューファインダーから覗き込み、多くは農村部のコートを一連の画像として見る経験は、展覧会においては身体の不在—イメージのなかのバスケットボールをする身体と自己の身体の不在—を際立たせる。

(1) 城戸光世「電気と磁気の身体論−十九世紀アメリカ電磁気文化とマーガレット・フラーのフェミニズム戦略 」『 身体と情動アフェクトで読むアメリカ・ルネサンス』 彩流社、2016年
(2) トリン・T・ミンハ(小林富久子訳)『ここのなかの何処かへ移住・難民・境界的出来事』 平凡社、2014年、p170-171

*2019年8月17日に加筆修正したものを掲載。

サマー・プロジェクト「Body Electric」
会期:2017年8月19日 – 26日
会場: ユカ・ツルノ・ギャラリー

会場撮影:加藤健
ハンドアウトデザイン:難波亜紀


PAAET (Art exhibition archive website) : http://paaet.jugem.jp/?eid=385